2018年3月6日火曜日

3/6例会:会員卓話(鈴木俊明君,濱田友美君)

第1339回例会(丸森年度第31回)

2018年3月6日(火)12:30~ ハイジアパーク南陽

丸森英一会長挨拶

今日3月6日は二十四節気の啓蟄です。冬ごもりの虫がはい出る日だと言われています。本当に今日、明日は余り気温が上がらない様ですが土、日はとても気温が高く、春のいぶきを感じることができました。ただ今年の冬はラニーニャの影響とも言われていますが、ヨーロッパの西海岸辺りの気温は高く、比べて日本やアメリカの東海岸は度々寒波に見まわれました。この辺も近年に無い積雪でした。三月はこの後平年よりやや高めの気温で推移する見通しです。私も毎年これからの時期は窓の外を見る事が多くなります。ついこの前まであれほどあった雪が消えるのを眺めたり、烏帽子山公園の一角を眺めたりします。そこのこぶしの白い花が見えだしますと桜の開花の前ぶれとなります。今年の開花はいつになるのでしょうか。大鳥居のしめ縄かけ替えの神事が行なわれる4月18日頃なのか今から楽しみです。
さて今日のプログラムは鈴木利明君濱田友美さんの会員卓話となっています。どの様なお話しをして頂けるか楽しみにしております。

幹事報告 横山仁幹事

  • 例会終了後、理事会がありますので、理事の方はお残り下さい。

委員会報告

  • 広報情報委員会 本田委員長・・・4/3広報情報委員会を開催します。委員には詳細案内します。

3月のハッピーバースデー

おめでとうございます。

スマイル

  • 飯塚一博君・・・早退します。
  • 和田廣君・・・娘が結婚しました。早退させていただきます。
  • 川井利幸君・・・3月3日酒田でPETS黒澤君と言ってきました。改めて身の締まる思いを感じてきました。
  • 後藤利昭君・・・黒澤さんのタイトル(国内初のアジアGAP)は素晴らしいと思います。
  • 黒澤信彦君・・・一店逸品で3位入賞しました。また、朝日新聞で掲載記事を報告させていただきます。
  • 本間宗一君・・・春が近いです。“ふきのとう”が芽を出しました。
  • 鈴木俊明君・・・本日卓話をします。拙い話ですがよろしくお願いします。
  • 本田義則君・・・昨日、娘夫婦、孫の三名が南陽市民となりました。よろしくお願い致します。
  • 高橋眞己君・・・PETS出席して参りました。川井エレクト、黒澤次期幹事、がんばって下さい。
本日9名、合計1万3千円のスマイルが集まりました。全て社会奉仕事業に使われます。ありがとうございました。

「ロータリーの友」見どころ 広報情報委員会 本田義則委員長

ローターアクト50周年を迎えてRI会長のメッセージ/1滴の水から広がる奉仕/ローターアクトからロータリーへ/ロータリー・モメント 鈴木一作ガバナー/バリー・ラシン RI会長エレクトのビジョン/長生きのための食生活の秘訣/ウイスキーについて/今こそDREAMを!/など

本日のプログラム 会員卓話

鈴木俊明君 ロータリーソング「奉仕の理想」の経緯

私がロータリーに入っておよそ2年と8か月になります。入会して2か月ほど経った時でしょうか、まだ何も分からないうちに、「ソングリーダー」に任命されました。毎回の例会で、皆さんの前に立って指揮をさせていただいておりますが、私はこの役職名が「指揮者」ではなく「ソングリーダー」であるという点が、当初から気になっています。指揮をするだけが「ソングリーダー」の役割ではないのではないか。単なる「指揮者」ではない「ソングリーダー」らしいことを何かできないかと思っていました。そこで、今日の卓話として、ロータリーソングの話をしたいと思います。
なにぶんロータリー歴の浅い私の話ですので、ベテラン ロータリアンの方々にとっては、今更聞くまでもない常識もあるかもしれませんが、しばし、お付き合いください。

私は学生のころから合唱団で歌っています。歌を歌うという行為は、単に言葉を朗読をするよりも心の奥底に響いて、無意識にも自分に大きな影響を与えるものだと感じています。ですから、訳も分からずに歌を歌うわけにはいきません。歌詞の意味や時代背景などを知らなければならないと、そう思いながら、歌ってきました。
ですからロータリーソングについても、いろいろ知りたくなります。調べる、と言っても、インターネットで検索する事しかしていないのですが、それでもロータリー文庫という素晴らしい資料保管庫があることを知りました。その資料をあたるだけでも、学ぶことが大いにありました。ちょうど今日も第一例会ですので、先ほど「君が代」と「奉仕の理想」を歌いましたが、それに関しても、大いに経緯があることを知りました。

まずロータリーソングの始まりについて、お話しします。
ご存知のように1905年にシカゴでロータリーが誕生します。会員がどんどん増えてまいりますが、3年目になると、親睦派と奉仕派とに意見が割れて、雰囲気が悪くなって解散の危機が訪れたそうです。
その時「毎週立ち上がってみんなで楽しく歌おう」との提案が出されました。童心に返って歌うことは、会員の親睦に大いに効果があり、危機を脱したそうです。こうして毎回の例会で歌うことが定着しました。これがロータリーソングの始まりです。

さて、日本では、1920年(大正9年)に東京ロータリークラブが誕生しました。それ以来、アメリカで歌われているロータリーソングを英語のまま歌っていたようです。
しかし昭和5年、神戸での地区大会において、国際ロータリークラブ連合会会長が、
「ロータリーは世界のロータリーであって、アメリカのロータリーではないと思う。今、英語でロータリーソングを歌われたが、なぜ日本語の歌を歌わないのか。そう聞いたところ、日本語の歌では権威が無いという事であった。そのようなことでは困る。    私は各国におけるロータリークラブが、それぞれの国の風俗習慣によって行われることを希望する」
と説いて日本語のロータリーソングを作ることを支援したそうです。

そして昭和8年7月に村田省蔵という方がガバナーに就任します。村田氏は、大阪ロータリークラブが設立された時のチャーターメンバーで、大手海運会社の大阪商船の社長でした。
ガバナーとはもちろん地区のトップなわけですが、当時は日本全体で一つの地区でした。しかも大日本帝国と名乗っていた時代ですので、その勢力範囲、つまり台湾・朝鮮半島・満州・樺太なども含めての一地区でした。ですから今とはスケールが違います。
この村田省蔵ガバナーは大変積極的に活躍され、2年間のガバナー在任中に、14クラブしかなかった地区のロータリーを倍増させるという、驚異的な功績を残されたそうです。また、なかなか進展しなかった日本語ロータリーソングを具体的に進めました。昭和9年の名古屋での地区大会で、歌詞を公募して選考・作曲することを約束したのです。
メンバーからの歌詞の募集が始まります。
応募者の中に、京都ロータリークラブに所属する前田和一郎さんがいらっしゃいました。前田さん自身は作詞するつもりはなかったようですが、当時の京都ロータリークラブ会長から、応募するよう強く言われ、断り切れなくなったそうです。前田さんは応募したものの、どうせ落選すると思って、忘れていたらしいのですが、これが当選します。
次に作曲ですが、これはさすがに素人というわけにはいきません。
ちょうどその頃、東京ロータリークラブに萩原英一さんというピアニストが入会します。萩原さんは東京音楽学校――現在の東京藝術大学 音楽学部の教授でした。ピアノの先生であって、作曲は専門ではなかったようですが、貴重な音楽家ロータリアンという事で、彼に作曲が依頼されました。
こうしてできたのが「奉仕の理想」です。

またこのほか、素人ばかりでは心配だったらしく、プロの作詞作曲家にも依頼をしていました。それが高野辰之作詞・岡野貞一作曲の「我らの生業」です。このお二人についても、話せばいろいろあるのですが、今日は割愛いたします。

こうして4曲ほど完成し、昭和10年の京都での地区大会で発表という運びになるのですが、ここで思わぬことが起こります。
村田省蔵ガバナーが「奉仕の理想」に待ったをかけるのです。

実は前田和一郎さんが作った歌詞は、今日我々が歌った歌詞とは少し違います。
    奉仕の理想に集いし友よ
    御国に捧げん我らのなりわい
ではなく、
    世界に捧げん我らのなりわい
と、前田氏は書いていたのです。
これを村田ガバナーが、「御国に捧げん」に歌詞を変更しなければ、認めることはできないと、半ば強制的に前田氏に迫ったというのです。

この昭和10年頃の日本の状況はどのようなものであったのか、振り返ってみる必要があります。
昭和6年、満州事変によって日本の関東軍は満州を占領。
翌 昭和7年には傀儡政権の満州国を建国。このとき政府に不満を持った海軍の青年将校達が犬養毅 総理大臣を暗殺します。五・一五事件です。
昭和8年、国際連盟は満州を中国に返還すべきと決議し、反発した日本は国際連盟を脱退。国際社会から孤立していきます。

そんな時代ですから、世論もロータリー内でも、平和と協調を望む国際派と、欧米列強に反発する国粋派に割れていたようです。村田省蔵ガバナーは後に大臣や、大日本帝国陸軍の要職なども務めていますから、愛国者であったのは間違いないでしょう。それに対し、前田和一郎さんは国際派でした。彼が
    世界に捧げん我らのなりわい
    望むは世界の久遠の平和
と国際派らしい想いを綴ったのを、国粋主義の村田ガバナーは許せなかったのかもしれません。

いやいや、そうではない、という話もあります。
当時日本でのロータリーに対する世間の目は、決して良いとは言えませんでした。
ロータリーはアメリカで発祥し、アメリカに本部がある国際組織ですから、日米関係が悪化する中、右翼団体による誹謗中傷や軍の圧力ばかりでなく、「アメリカのスパイ」呼ばわりする新聞さえあったそうです。
昭和8年には、京都ロータリークラブに愛国者の一団が乱入し、解散を迫るという事件も起きました。そのとき「ロータリーは職業を通じて世のため人のために働いているのであって、決して国の利益に反することはありません」と説得し、その証として「日の丸」を掲げ「君が代」を歌うことを約束し、全国のロータリーに徹底したそうです。現在でも、「日の丸」を掲げて「君が代」を歌うのは、その名残だそうです。
そのような時代の情勢でしたから、このままではロータリーの存続自体が危ういと感じた村田ガバナーが、日本のロータリーソングを作るにあたり、愛国心が盛り込まれたものにしなければならないと、前田氏を説得したとも言われています。

国粋主義者のガバナーの横暴なのか、ロータリーを守るためのやむを得ない決断なのか、それは私には分かりません。どちらにしても、前田和一郎さんは涙を呑んで、歌詞の変更をせざるを得なくなりました。

昭和10年、京都での地区大会において、「奉仕の理想」「我らの生業」など4曲が、華々しく披露されました。特に「奉仕の理想」にある「御国に捧げん我らのなりわい」の歌詞は、世相と相まって歓迎され、大いに喜ばれて歌われたそうです。
それでも「望むは世界の久遠の平和」という歌詞は残りました。
しかしその願いもむなしく、
昭和11年 二・二六事件。陸軍青年将校らがクーデター未遂事件を起こします。
昭和12年 日中戦争が勃発
昭和14年にはドイツがポーランドに侵攻。ヨーロッパが戦場になっていきます。

そのような中、日本でのロータリーに対する攻撃は激しさを増していきます。クラブの例会を憲兵や特高警察が監視、スピーチ原稿は検閲を受け、さらに米山梅吉氏が軍当局に呼び出されます。そこで、ロータリーの存在は「大日本帝国に対する反逆である」との暴言まで浴びせられます。
昭和15年、日本のロータリーは次々と解散に追い込まれ、遂に日本からロータリーが消えてしまいます。
名前を変えて集まりを続けたクラブもありましたが、前田和一郎さんはこの時クラブを離れます。

そして昭和16年、1941年12月、日本はハワイ真珠湾を攻撃。アメリカとの戦争に突き進むのです。

昭和20年、多くの犠牲を出して戦争は終わります。
戦後間もなく、国際ロータリーへの復帰運動がおこります。反日感情が強く残る中、簡単には実現しませんでしたが、当時のRI会長、オーストラリア出身のアンガス・ミッチェル卿の尽力によって4年足らずで復帰することが出来ます。戦後の日本で、国際団体への復帰、加入が許されたのは、宗教関係団体をのぞけば、ロータリークラブが最初ということです。
こうして全国でロータリーが再建を始めますが、前田和一郎さんは誘いを断り続け、ついにロータリーに戻ることはありませんでした。復帰はしませんでしたが、ロータリーソング「奉仕の理想」の作詞者として、手記を寄せています。その結びに前田さんは次のように書いておられます。

わが国は戦時色が濃厚となってきた。そのため『御国に捧げん我らのなりわい』はどこのクラブに行っても好評であった。
しかし、今やわが国は平和国家となったのだから『世界に捧げん我らのなりわい』と訂正したいと思う。

と心境を述べています。
前田氏は昭和46年に76歳で亡くなりますが、親しい友人にも「いつの日か『世界に捧げん』に戻してもらうと有難い」と言い残されたそうです。

彼の意志を尊重して、「世界に捧げん」に直して歌っているクラブもあるそうですが、「御国に捧げん」の方が今のところ主流でしょうか。
意見は様々あります。戦争の歴史を忘れないように、「御国に捧げん」のままで良いとする意見や、「世界に捧げん」「世界の久遠の平和」と、「世界」という歌詞が重複するのは好ましくない、などの考えもあります。また「御国」というのは、何も軍国主義的なものではなく、自分たちの住む地域を良くしたい、という思いだと言うこともできるでしょう。
とはいえ、作者の意志も重いものがあります。

前田氏が所属していた京都ロータリークラブの見解は、「この歌は、いまや日本のロータリー共有の財産でありますから、京都ロータリークラブが歌詞の変更などについて決定する筋合いのものではありません。クラブ・地区のご判断でどちらでも好きに歌われては」ということです。

さて、皆さんはこのロータリーソング「奉仕の理想」の経緯はご存知でしたでしょうか。歴史の遺産とも言える重みを持ったこの歌を、歌い継いでいくことは大切です。その歌詞について皆さんはどうお考えでしょうか。
最初にも申しましたが、歌を歌うという行為は、心の奥まで影響を与えるものです。誰かが決めるのを単に待つのではなく、自分はどう思うのか、どうしたいのかを一人ひとりが考えて欲しいと思います。

いつか、このことをクラブで話し合う日が来れば、嬉しく思います。
ご清聴ありがとうございました。

濱田友美君 職場の現状

特別養護老人ホームの現状、南陽市の高齢化状況、介護福祉の現状と将来など。

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2018年7月16日追記
鈴木俊明卓話内容についてコメント等もありましたので、卓話原稿を作った際の参考資料を挙げておきます。資料として重複した内容もあります。多くはロータリー文庫のWEBサイトから取ることが出来ます。

「ロータリーソング誕生秘話」岡村健(福岡南ロータリークラブ月報 2012年12月No.644)
「ロータリーソング“奉仕の理想”誕生秘話」川口(京都ロータリークラブ会報 第262号1972年1月19日))
「ロータリーソング“奉仕の理想”誕生秘話」末正(第368地区月信1971年6月)
「世界に捧げん我等のなりわい ―奉仕の理想の作者のこと―」末正 久(「ロータリーの友」誌 1972年4月)
「私のロータリー寄稿文集」市居嘉雄(2000年10月発行)
「『奉仕の理想』の歌詞は」坂部滋男(「ロータリーの友」誌 2001年6月)
「日本のロータリーソング」札幌ロータリークラブ 会長 西條正博(昭和62年10月7日発行)
「『ロータリーソング』についての情報」宇都宮北ロータリークラブ 鈴木宏 2003年6月19日
「ロータリーソングを作った人々」西宮ロータリークラブ 1982年5月28日発行
「ロータリーと歌」(「ロータリーの友」誌 2017年 Vol.65 No.4)
「宇都宮南ロータリークラブ会報」(2012-2013年度 第14回例会)
東京ロータリークラブ(http://www.tokyo-rc.gr.jp/)沿線>東京ロータリークラブの歴史

など
鈴木

6 件のコメント:

  1. 御国に捧げん我らの生業・・・・そういう歴史があったんですね。今でも多少違和感を覚える方もおられるでしょうね。

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  2. コメントありがとうございます。この歌詞が気になって調べ始めました。ロータリー文庫にたくさんの資料があって、素晴らしいと思いました。その他、東京ロータリークラブや大阪ロータリークラブ、京都ロータリークラブのホームページ上の歴史などを参考資料にしました。感謝です。

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  3. 卓話を拝見させていただき、勉強になりました。
    今回会長の時間で、貴殿の卓話を引用させていただきたいのですが、よろしいでしょうか。

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    1. 遅くなりまして申し訳ございません。
      ご利用いただいてもかまいませんが、私もいくつものロータリー文庫の資料や、いろんなクラブのHPの掲載内容などから総合的に書いたものです。少々脚色した部分もないとはいえません。
      それぞれの資料の裏を取ったわけではありませんので、「真実か」と問われれば苦しいところがあります。それをご了承の上ご利用ください。 鈴木

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    2. ご快諾いただきありがとうございます。
      お礼遅くなり申し訳ございません。
      機会ございましたら岸和田東ロータリークラブのホームページを覗いてください。辻林

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    3. 岸和田東ロータリークラブのホームページを拝見いたしました。国際的な活動をされていて素晴らしい情熱を感じます。
      辻林様は今年度の会長をお務めなのですね。ご活躍をお祈り申し上げます。

      なお、卓話の参考資料・文献を記事に追記いたしました。

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