第1416回例会(鈴木年度第17回)
2019年11月26日(火)12:30~ ハイジアパーク南陽
鈴木常雄会長挨拶
皆さんこんにちは。本日の例会は南陽警察署長の町田裕俊署長様より卓話をいただきます。皆さん大変興味のあるお話しをいただけるのでないかと期待しております。さて、ロータリー運動は1905年(明治38年)2月23日、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴの一青年弁護士であったポール・パーシー・ハリスと彼の友人3人の集まりから始まりました。不思議なことにポールの生い立ちや青春時代を知っているロータリアンはあまりいないようです。実は、とても興味深いものがあります。3歳の時に父親が破産し、妹は母の元に、兄とポールはニューイングランドのヴァーモント州にある父親の実家に身を寄せました。その後、兄は伯母の元に引き取られ、彼だけが祖父母の家で育てられたのです。
アメリカ東北部に位置するニューイングランド地方は、宗教的自由と良心の自由を求めて植民した人が集まっていました。ピューリタニズムに根差す個人の尊厳と独立を基調とした誇り、そしてニューイングランドの自然の厳しさに対する闘いから得た勤勉さがあったそうです。
そうした宗教心、良心、独立心、勤勉、実直な生活態度を、彼は祖父母から身につけたのでしょう。実際、彼は晩年の追想録で、
「長い年月を顧みれば、人生でそれほど重要と思わなかったものが、実はそれこそ極めて重要であったことに気がつくものです。例えば、犠牲・献身・名誉・真実・誠意・愛一、これらは古くからの善良な家庭で受け継がれてきた、素朴で高潔な特質です。」
と述べています。
ポール・ハリスの少年時代は、聡明であっても勝気にはやる乱暴者だったと言われています。
入学したブラック・リヴァ幼年学校は中退し、ヴァーモント大学も素行不良で退学を命ぜられています。その後、プリンストン大学に入学しましたが、祖父が亡くなったために中途退学せざるを得なくなり、1年間の就職の後、アイオワ州立大学法学部に入学しました。
アイオワに出発する際は、祖母は彼に向って、
「ポール、あなたは世の中の人々に大きな借りがありますよ。一人前になったら一生懸命働いて、その借りをお返しするような立派な生活をしなければなりません。」
と述べたそうです。
しかし、その祖母も、彼がアイオワ州立大学在学中に亡くなりました。こうした逆境や不遇の中、1981年、彼はアイオワ州立大学を卒業し、弁護士資格を取得しました。
ところが彼は、すぐ弁護士を開業せずに、5年間の放浪の旅に出ています。カリフォルニア、コロラド、フロリダ、さらにワシントン、ケンタッキー、テネシー、ジョージア、ヴァージニアと渡り歩き、海を渡ってロンドン、リヴァプールにも行きました。帰国後は、キューバやバハマ諸島も訪れています。
経済的に恵まれなかった彼は、行く先々で新聞記者、大学講師、カウボーイ、農園労働者、俳優、水夫などをやっています。特に、フロリダ州のジャクソンヴィルで大理石と花崗岩採掘業を経営していたジョージ・クラークの元で働いたことが契機となり、彼の会社の代表としてフランス、イタリア、オーストリア、オランダ、ベルギー、イギリス、スコットランドなどを視察しています。
こうした各地各国の放浪生活を通して、
「人類は伝統と慣習の違いから様々な思想と制度を持つものの、その根本は善意と友愛に支えられている。」
5年間の放浪生活を終えたポールはシカゴで弁護士事務所を開業し、その後、ロータリーくらぶを創立しました。ロータリークラブ創立の理由として、「寂しかったからだ」という彼の言葉は有名です。
皆さん、どう感じられたでしょうか。ロータリーの創立者である、ポールハリスも若い時代、大変苦労されたんだなと思います。私たちも善意と友愛に支えられる仲間作り、活動が出来ますよう祈念致しまして挨拶と致します。
幹事報告 大竹一晴幹事
・年次計画書 P68だぶり修正。誤字訂正は事務局へ。
委員会報告
30周年記念誌委員会 小笠原委員長
30周年総務委員会 飯塚委員長
スマイル
・和田廣君・・・警察署長さんに感謝して。・佐藤直人君・・・スマイルに感謝して。
・丸森英一君
・鈴木俊明君・・・先週の例会出席委員全員欠席でした。すみません。
外部ゲスト 南陽警察署長 町田裕俊様
出席報告
先週 出席16名 出席率48.48%本日 出席20名 出席率62.5%